第1章 大学を去った空海 



  

■幼名を「真魚」(まお)といった
○空海は宝亀5年(774)6月15日、四国の讃岐国多度郡屏風ヶ浦で生まれた。父は、佐伯田公(さえきのたぎみ)、母は、阿刀(あと)氏の家系でともに豪族だった。幼時は「貴物」(とうともの)と呼ばれていた。阿刀大足(あとのおおたり)が教育にあたった(母の兄、桓武天皇の皇子である伊予親王の教育者)。

■風来坊、空海の青春
○15才で都に出て、18才で大学に入学したが、1、2年で大学を辞めている。

■迷って決断できないとき、どうしたらいいか
○人間は両方いっぺんにやれないのだから、どちらを選ぶのが正解か、永遠に答えは出ない。というより正解なんてないのだ。

■大学入学、貴族の子弟に囲まれて
○当時の大学の年令は、13才から16才であった。普通は16才で卒業するものを、空海は18才で入学している。聴講生のような資格での入学であったかもしれない。
○当時の大学は、貴族の子弟を対象とする官吏養成機関であった。そこで徹底的に叩き込まれるのは儒教の教養である。

■大学の空海は、はたして刻苦勉励したか
○まわりにいる連中は年下ではあるが、中央の貴族の子弟である。空海にコンプレックスはなかったか。

■空海はなぜ、大学に嫌気がさしたのか
○民衆を管理・支配の対象としてしか見ない貴族の子弟の視座に空海は違和感を覚えたはずだ。空海は地方豪族の三男坊。

■密教は庶民の中から生まれた仏教
○小乗仏教というのは、出家者だけが救われるという非常に独善的な閉鎖的な仏教であった。
○それに反発したのが、大乗仏教である。出家・在家を問わず、大勢の人間が救われるのが真の仏教であるというのが大乗仏教の主張であった。
○仏教が大衆化されると、大衆の持っていた俗信がそっくりそのまま仏教の中に持ち込まれた(ヒンズー教の神々、祈祷、占い)。その変わった仏教が「密教」となる。

■空海以前の密教は、たいしたものではなかった
○空海は密教を単に持ち帰っただけではなく、確固とした教理体系に作り上げた。空海は、貴族と結びついた仏教ではなく、庶民的な仏教である密教に惹かれたのである。

■かすばかり勉強していて、何になるか
○大学で勉強するのが馬鹿らしくなって、サボっているうちに中退みたいになってしまったのだろう。



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