第2章 彷徨する空海 



    

■大学を去ってからの空海の行方
〇大学を飛び出した空海は、31才で遣唐使船に乗り込むまで、ようとして足跡が不明なのである。
〇24才のときに「三教指帰」を書いた。三教とは、儒教、仏教、道教である。空海はこの三教を比較し、仏教が一番すぐれた教えであると結論している。空海の出家宣言であった。

■山岳修験者として修行する空海
〇ここに一人の沙門有り……ある僧侶より「虚空蔵菩薩求聞持法経」を教えられた。
 虚空蔵菩薩の真言を百万回となえれば、あらゆる経典を暗記し、理解することができると説いてあった。
〇空海は、これを阿波の太龍岳や土佐の室戸岬でやった。
〇明星来影す……室戸の洞窟で一心に虚空蔵菩薩求聞持法を行っていた空海の口に明星(金星)が飛び込んだ。
〇僧侶は国家公務員で、沙門はルンペンである。空海はルンペンに近づいたわけだ。
(ルンペン=浮浪者、乞食、ボロをまとってうろつく人)

■モラトリアム青年・空海は、何を考えていたか
〇栄達を競う朝廷での宮仕えの生活、利益を追い求める市場での駆け引きの生活が嫌になったと、空海は書いている。
〇何か自分にできるものはないだろうか、漠然と彼は考えていた。

■貴族を嫌悪し、人の世の無常を嘆く空海
〇空海は「貴顕の人々の生活」が無常だと言っている。空海は「民衆のための仏教」を模索していたのだ。

■庶民の学校、綜芸種智院
〇空海が常に民衆・庶民を忘れていなかったことの証拠として、空海の晩年に近い出来事だが、綜芸種智院の創建を挙げることができる。空海55歳の時である。
〇この学校は入学資格を問わず、いかなる階級の者でも入学させた。おまけに完全給費制である。
 空海は儒教・道教・仏教をはじめとして、陰陽・法律・工芸・医学・音楽に至るまであらゆる学問を総合して教育しようとしたのであった。

■仏教と儒教を同一次元で考えた空海
〇人々を導く教えに、仏教もあれば、道教も儒教もある。浅いとか深いとかがあるが、すべて聖者の教えである。その一つに入れば忠孝に背くはずはない。

■歴史の空白を埋める、空海の中国密航説
〇24才から31才までの7年間は、伝記的にはまるで空白の期間で、中国密航説というのもある。

■空海の修行は鉱山の探査?
〇空海の修業時代、実に多くの場所に足を運んでいる。とりわけ、水銀と密接に関わっている。
〇水銀は薬用のほか、金の精錬や寺院の彩色(丹塗り)などに不可欠のものであった。

■語学の天才、空海
〇現在活躍中の評論家先生にも、俗に世間の人が呼んでいる「語学屋さん」あがりの人が多い。
〇彼は大学で、1、2年を学んでいる。その間に徹底的に語学をやったのであろう。そしてあとは暗記力である。さまざまな文章を暗記する。これが語学の王道である。

■夢のお告げで「大日経」に出会う空海
〇空海は久米寺(くめでら、奈良)に密教経典(大日経)のあることを夢のお告げで知ったのである。
〇第1章は教理的な部分だが、それなりに理解できた。しかし第2章は、マンダラの描き方とか、護摩の焚き方など、実際に手を取って教えてもらわないと容易に分かるものではない。それで空海は唐に渡る決心をしたと言われている。

■密教の最大の魅力は何か
〇顕教……修行を積んで仏になるための教え
〇密教……いきなり仏になって、そのまま仏になりきって生きるための教え
     仏のマネをして生きる仏教、仏に成りきって生きる仏教

■密教人間・空海の誕生
〇目覚めてブッダになれば、そのままブッダとして生きる工夫はあるかいか。
〇この時期、空海は「仏になりきって生きよう」としていた。それこそが真の仏教のあり方であると彼は確信していた。



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