第3章 海を渡る空海 



    

■「まねる」ことを軽蔑してはならない
○弟子は師匠から「盗み出す」ことになっている。師匠の芸を、棋風を、師匠から黙って盗んでいく。そのために弟子入りするのである。
○日本語では「まねをする」のが「学ぶ」ことであり、「学ぶ」のは「まねをする」ことなのである。

■教育とはまねをさせることに始まる
○図画の最初は塗り絵であったし、お手本どうり描くのがいいこととされていた。
○教育の場だけとは限らない。自分に目指すべき人、尊敬する人がいて、少しでもその人にあやかりたい場合、徹底的にその人をまねればいいのである。
○空海は仏陀になりきったのである。仏らしくメシを食い、寝る時も仏らしく寝る。糞をするときだって空海は仏陀のつもりでやったに違いない。それが密教の生き方である。

■空海が19才で出家したわけ
〇わたしが自分勝手に推測してみたいのは、この19才という年令である。ある時空海は、自分もまた19才で大学を退いて、沙門(出家求道者)の生活に飛び込んだことを思い出したに違いないのだ。
(昔は、仏陀の出家は19才、成道は30才とされていた)
〇このまま30才の12月8日までは、山岳にあって修行を続けよう。彼はそんな予定をたてた。

■盤珪(ばんけい)禅師に叱られた侍者の話
〇ここからが面白いのであるが、空海の人生の一つの「流れ」に乗って展開されていく。
〇幸運を逃がす人は、自分で運命を選択しようとする人である。1の道がよいか、2の方がベターか一生懸命考え、迷いながら行動する。
〇ある時、禅師は侍者を遣わして京都の上質の紙を買いにやらせた。禅師は買ってきた紙を見て「これじゃダメだ」という。禅師は、三度目の紙にも不合格を宣言した。

■侍者はなぜ、三度も師に拒まれたのか
〇わたしの解釈をすれば、侍者の迷いを禅師は叱られたのだと思う。
〇「どんな紙でも文句を言うな。この紙でいいんだ」それぐらいの自信がないといけない。そうでないとわたしたちは運命に翻弄されてしまう。
〇禅は運命の波に巻き込まれぬように、強靭な主体性の確立を要請している。しかし空海は、むしろ運命の波に身を預ける生き方ではなかったか。
〇われわれ凡夫は、禅僧のような強靭な主体性を確立させていないし、しかも空海のように「流れ」に身を預けきっていない。中途半端だから迷うのだ。迷うから幸運の女神は逃げてしまう。

■自分は仏陀である、と信じ切っていた空海
〇どんな過酷な運命であっても、仏陀だけには反抗できぬはずだ。そして自分はその仏陀であると。それだけの信念があったから、空海は運命に下駄を預けられたのである。
〇無欲と正直。この2つの条件がないと、流れに乗って(没主体的に)生きていけない。

■留学を実現させた素早い決断
〇延暦23年(804)31才の空海が、釈迦が31才で教化の活動を始めたように、人々の前に姿を現した。その芝居っ気こそ、ある意味で密教的なのだ。
〇彼が最初に会った人物は、阿刀大足(あとのおおたり)であったに違いない。伊予(いよ)親王の侍講(教育係)をしており、天皇ともつながりがあった。
〇延暦22年(803)3月に遣唐船が難波(なにわ)を出帆したが、現在の松山あたりで暴風雨にあって難破し、空海が姿を現した年に再出発することになっていた。
〇「どうじゃな、唐の国にでも行ってみる気はないか?」
 「行かせてください。お願いします」 打てば響くとはこのことである。空海は即座にそう返答した。
〇31才で山から出てきた空海は、出てきたとたんに唐に行くことになったのである。

■謎に包まれた空海の渡唐のいきさつ
〇空海がどういう資格で唐に渡ったのかも、ほとんどわからない。20年を期限とする留学生(るがくしょう)であったと推定されるが、これにも異論がある。ひょっとしたら通訳のような資格で、遣唐船に乗ったかもしれないのである。
〇留学生としていくには、現在の金にして1億円くらいの準備が必要だったという。そのスポンサーが誰であったかもわかっていない。

■三分の一が沈没した遣唐船
〇日本から中国に無事に渡れる確率は、6、7割程度であった。3、4割は海の藻屑になるわけだ。遣唐船に乗ることは、したがってある程度は死を覚悟せねばならない。

■遣唐船の船上、一人超然とする空海
〇日本を離れて唐の国に向かう。その船上にあって、空海はこんなふうに呟いていた。
 「そうじゃな、唐から天竺に行ってみようか」
〇一つのことをやるのに、その仕事にとりかかったとたん、その次の目的をつくってしまう人間である。空海はそんな男である。まるでわれわれとスケールが違うのだ。

■なぜ達磨は武帝に「無功徳」と応えたか
〇武帝は達磨に語る
 「朕(ちん)は即位してから今日まで、多くの寺院を造り、経巻を書写し、また僧尼を厚くもてなしてきた。これらの行為には、いかなる功徳があるか?」
 それに対して達磨はにべもなく応えた。「無功徳」
〇なぜなら「功徳」のために写経や援助をすれば、「功徳」が大事で、写経や援助はどうでもよくなってしまう。

■手段と目的との間に敷居はない
〇では、どうすればいいのか。禅が教えるのは、目的を忘れろということであろう。目的を忘れて、ひたすらにその仕事に打ち込めということである。
〇しかし空海は違う。船に乗ったとたん、もう唐に着いているのだ。彼は「終わり」から出発している。それが密教である。
〇仏陀になるのが、普通には仏教の「終わり」である。しかし空海の密教は、そんなやり方をしない。仏陀になったところから出発している。そして、衆生を救ってやろうとしているのだ。

■はじめから仏陀に成りきった男
〇男と女が出会って、口説きという面倒な手続きを考えるのがわたしである。空海は違う。出会ったときに、もう自然にキスしているのだ。
〇空海が本当にやりたかったこと、それは「衆生済度」(しゅじょうさいど)である。
〇民衆の救いだ。それをやるために、彼は最初の最初から仏陀になった男である。仏陀の仕事をやっている男である。
〇一般の仏教者は、修行をやって仏陀になって、それから民衆の救いをやろうとする。そのうちに仏陀になることにうつつを抜かし始める。自分のための修行ばかりを考えるようになって、民衆の救いなんて忘れてしまうのだが、空海はそんなことをしない。彼はいきなり仏陀の仕事を始めるのだ。それが空海であり、密教である。

■最澄とのすれ違い
〇延暦23年(804)7月6日、遣唐船は九州肥前田浦(たのうら)の港を発つ。
〇第1船(乗員23名)
 大使=藤原葛野磨(ふじわらのかどのまろ)、 副使=石川道益(いしかわみちやす)
 橘逸勢(たちばなのはやなり、三筆の一人)、 
 空海(31才、滞在期間最低20年の留学生、当時は無名の人物)
 8月10日、はるか南の福州長渓県の赤岸鎮(せきがんちん)に漂着した。
〇第2船(乗員27名)
 判官=菅原清公(すがわらのきよきみ)
 最澄(38才、還学生、短期の視察旅行)
  比叡山に一乗止観院を建立し、桓武天皇の厚い帰依を受ける。天台宗の開祖。
 9月1日、明州(みんしゅう)寧波(にんぽう)府に漂着した。
〇第3船:嵐で船が壊れ、いったん日本に帰国する・
〇第4船:消息を絶つ。



目次 


inserted by FC2 system