第4章 超然たる空海 



    

■漂流のすえ、南の福州に上陸
○8月10日、船は福州赤岸鎮(せきがんちん)に漂着した。

■海賊扱いを受ける遣唐使一行
○赤岸鎮は辺疆の地である。俗に「びん」と呼ばれている越(えつ)族の一派の「びん越」(びんえつ)人の土地である。唐代になって漢民族が少し入ってきた僻地なのだ。
○ともかく福州まで船を回した。福州に着いたのは10月3日である。
○大使の藤原葛野磨(ふじわらのかどのまろ)がいくら言っても、福州の観察使(長官代理)は信用してくれない。遣唐船がこんな南の地にやって来たことは、これまでついぞなかったし、国書も印符も持っていないのだから向こうが信用しないのは当然だ。

■相手の態度を一変させた、空海の上奏文
○空海の文書を見た観察使は、たちまち態度を変える。にっこりと笑って、こちらを信用してくれたのである。空海の文章がすごいものであったからだ。

■生命を顧みず、天子を慕ってやって来た
○長安の都に連絡をとり、やがて入京が許される。

■大使・藤原葛野磨の逆恨み
○「空海よ、よくやってくれた。ありがとう」と口では言いながら、腹の底では煮えたぎる憎しみを燃やしていたはずだ。

■他人の仕事に口出しするな
○論理学者の増原良彦氏は、サラリーマン向けの処世術を教えた連載の中で、口を酸っぱくして「他人の仕事に口を出すな」と主張している。
○他人様のやっておられることに、一切口出しをしない。それがサラリーマンたる者の、まず第一の心得であり、この心得を忘れたサラリーマンは必ず失敗するに決まっているのである。

■空海、長安入りのメンバーから外される
○観察使から上京のメンバーが発表になったとき、そこにあるべき空海の名前がなかったのだ。
○歴史家は、その理由をあれこれ推理している。きっと福州の観察使が空海の才能に惚れ込んで、自分の許に置こうとしたのだと理由づける人もいる。
○福州に着く前から、いや日本を出たときから、ひょっとしたら2人(藤原葛野磨と空海)は犬猿の仲であったかもしれない。
○空海は再度嘆願書を書き、一行と共に長安にのぼることができた。長安に入ったのは、延暦23年(804)12月23日である。

■世界文化の中心地、長安
〇長安の都は、当時、世界文化の中心地であった。仏教のみならず、キリスト教の一派のネストル教、マニ教、拝火教(ゾロアスター教)といった西方の諸宗教が、この地では流行していたのである。

■空海は、なぜサンスクリット語の勉強を始めたか
〇遣唐使の一行は、到着の翌年の2月10日に長安を出発して帰国の途についている。徳宗が崩御、順宗が即位することになり、改めて外交使節を派遣することになる。
○最澄は明州で大使と合流し帰国した。
○長安に残ったのは、空海と橘逸勢(たちばなのはやなり)の2人であった。留学生は西明寺(さいみょうじ)に入った。
〇当時、長安には北インド出身の般若三蔵(はんにゃさんぞう)および、牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)の2人のインド人が来ていた、空海は、この2人からサンスクリット語やインド哲学を学習したのであった。

■密教の師、恵果(けいか)和尚との劇的な対面
〇密教では、師を「阿闍梨」「大阿闍梨」と呼んでいる。
〇空海が初めて青龍寺(せいりゅうじ)の恵果にまみえるのは、6月上旬である。
〇空海は長安でサンスクリット語を勉強して、いずれ機会を得て、インドに行くつもりでいた。だから、急いで恵果和尚に会う必要はなかったのだ。

    

■空海が密教に開眼したカギを推理する
〇ではなぜ、インドに行く予定を変更したのか。空海はインドに行かずして密教の本質をつかみ得たのである。
〇空海は2人のインド人からサンスクリット語を教わっていた。と同時に彼はバラモン教の哲学についても学んだのであった。そして、そのバラモン哲学が、空海の再度の密教開眼をさせてくれたのであった。
〇密教というのは、仏のまねをして生きる仏教。仏に成りきって生きる仏教である。すでに日本において、空海はそれに気づいたのだ。
〇日本の仏教学者は、どうも訳のわからぬ説明をして読者を絶望に追いやる。「密教入門」だとか「わかりやすい密教の本」だとか、いっぱい出版されているが、東大の印度哲学科で勉強したわたしが読んでもさっぱりわからないのである。
〇空海を描き、空海に感情移入しているうちに、空海の性格がわたしに乗り移ったのかもしれない。

■大日如来、大宇宙の中心仏
〇「華厳経」に説く「毘盧遮那仏」はご自分では説教されない。釈迦仏を人間界に派遣して真理を教える。キリスト教がイエスを通して福音を伝えるのと同じ。しかし密教は、大宇宙仏は雄弁に真理を語っていると主張する。
〇沈黙の大宇宙仏が「毘盧遮那仏」と呼ばれるのに対して、密教では雄弁に真理を語る大宇宙仏を「大日如来」と名付ける。
〇大日如来は雄弁に真理を語っておられるが、その言葉は人間の言葉ではない。宇宙の真理は宇宙語でしか表現できない。つまり大日如来は、象徴言語・宇宙語でもってしゃべっておられるのだ。

■仏の世界に「まず飛び込め」
〇インド哲学に「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という思想がある。「梵」とはサンスクリット語で「ブラフマン」といって宇宙的原理である。「我」は「アートマン」といい、こちらは人格的原理である。この梵と我が究極において一致するというのが「梵我一如」の思想である。これがバラモン教の根本思想なのだ。
〇「梵我一如」こそ、密教を解くカギであったのだ。
〇凡夫ははじめから仏である。面倒な修行の末に仏になるのではなく、はじめから仏としてある。凡夫がそれを自覚さえすれば、それで済むのである。仏の世界にどぶんと飛び込めばいいのである。

■密教は本質的なところで、性的である
〇日本に生まれた赤ん坊は、いつの間にか日本語をしゃべっているし、フランスの赤ん坊はフランス語を覚え、ドイツの赤ん坊はドイツ語を身につける。それと同じで、宇宙語は宇宙に飛び込めば自然に覚えられる。
〇梅棹忠雄(うめさおただお)氏は、社会学の調査で地球のあちこちに行かれるが、言葉の学習は現地に行ってから現地で現地人と一緒に生活しながらやるそうだ。そのやり方で一ヶ月で蒙古語をマスターされたという。
〇密教は本質的なところで、性的である。日本人はセックスを淫靡なものに思っているが、明るいインドの陽光の下で見るミトゥナ像(男神と女神の結合像)はアッケラカンとして美しい。
〇密教の郷里は、その意味では明るい南の太陽の国である。太陽の国の宗教だから、太陽を象徴した仏陀「大日如来」になるのである。

■師・恵果に密教の本質を説いて聞かせる弟子・空海
〇空海は開眼した。密教とは「仏凡一如」(ぶつぼんいちにょ)なのだ。男が女にくっつくように凡夫は仏に合一すればよい。修行だなんて、そんな面倒な考え方をする必要はない。ただ飛び込めばよいのである。それが空海の悟りであった。
〇それが分かれば、もうインドに行く必要はない。あとはただ、細かな方法・テクニックを教わればよいだけである。空海はそう考えて、それで青龍寺に恵果和尚を訪ねて行った。(弟子1000人以上)
〇恵果から学ぶ空海は、どちらが先生で、どちらが弟子か、恵果にも空海にも錯覚されるほどであった。恵果が方法・テクニックを教授し、空海がその哲学的意味付けを明かす。
〇「法華経」に「唯仏与仏」という言葉がある。道元禅師が好きな言葉であった。「ただ仏と仏と」といった意味だ。仏に仏が向かい合っている姿、それが仏教の究極のあり方である。空海と恵果は、その「唯仏与仏」であっのかもしれない。

■瞬時にして、空海を後継者と決めた恵果
〇「灌頂」というのは、元はインドで王様が即位をするときにやった儀式である。頭に水を注ぎかける。キリスト教の洗礼のようなものだ。
〇空海は猛スピードで以下の「灌頂」を受けた。
 6月13日:胎蔵界、7月上旬:金剛界、8月10日:伝法灌頂
○日本から来た空海が、伝法灌頂(密教の後継者になる)を受けることに、弟子達の反発があったという。

■投華の儀式で空海が見せた「奇跡」
〇胎蔵界と金剛界の灌頂の時には、マンダラに向かって花を投げることになっている。花が落ちたところの仏・菩薩が、その人にとっての守り本尊になる。
〇空海の投げた花は2度とも、大日如来の上に落ちた。後年、空海が自らを「遍照金剛」と称したが、それは大日如来の別称である。
〇恵果は、その年の12月15日に入滅する。享年60才。思えば、半年足らずの「唯仏与仏」であった。
○空海は弟子を代表して、師の碑文に刻む追慕の文章を作成した。

■五筆和尚(ごひつわじょう)の称号
○長安から帰る直前、皇帝憲宗の命で宮中の王羲之筆の屏風に欠字をしたためた。その時、両手両足と口に五本の筆を持し篆・隷・楷・行・草の五体書法で一気に書きあげたという。皇帝は空海に「五筆和尚」の称号を与えたという。

■コスモポリタン空海
〇空海は外交的手腕にもたけ、その交渉術は群を抜いていた。
○空海は長安の文化人たちのサロンにも出入りしていた。これは帰国にあたり、長安の文化人が惜別の詩を贈り、空海もまたそれに対して返礼の詩を贈っていることからもうかがえるのである。



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