第5章 帰ってきた空海 



    

■宗教の歴史における2人の「超人」
○「超越者」(釈迦やイエス)の示した峻厳な道も、誰かがそれを踏破することによってぐっと歩きやすくなる。そして、その最初に踏破した人間をわたしは「超人」と呼びたいのである。
〇ガンジーは「超越者」であるキリストの教えた茨(いばら)の道を、見事に踏破した「超人」だ。皮肉にも、キリストの愛の道を最初に踏破したのは、異教のヒンズー教徒のガンジーであった。
〇空海は「超越者」釈迦が教示した仏教の峻厳な道を最初に踏破した「超人」である。空海が踏破してくれたあかげで、われわれは随分と仏教の道を歩きよくなったのだ。

■20年のはずが、2年で帰国した空海
〇空海は20年を期限とする留学生であった。20年間、唐にあって勉学・研鑽を積むべき身だ。しかし、天竺(インド)に行く必要もなくなったし、師の恵果も没してしまった。
〇その時、新皇帝の即位を祝うため長安に来ていた高階遠成(たかしなのとおなり)に、自分の帰国を願い出る公文書とともに、橘逸勢の帰国願いまで代筆して提出した。
〇8月、空海は明州に行く。10月、空海は再び日本の土を踏む。

■契約違反は、はたして死罪に相当か
〇帰国した空海は、大宰府で「御請来目録」を書きあげた。これを上京する高階遠成に託して、朝廷に差し出したのである。
○朝廷の反応は冷ややかだったが、最澄が「御請来目録」の価値を認めたと言われている。

■行方不明の空海は、どこで何をしていたか
〇山籠もりをしていた。それがわたしの推測である。空海は、密教人間であると同時に山岳人間である。よほど彼は山が好きなのだろう。

■山の霊気でパワーを回復する空海
〇修験道においては、山岳がマンダラであり、また母胎になぞらえられている。
○われわれは山岳に入って、一旦死んで、仏の母胎で眠り、再び新しい生命を得て山岳を下りてくるのである。それが修験道の入峰修行であるが、明らかにこれは空海が考えそうなアイデアである。

■空海、いよいよ山を下りる
○空海が山を下りてきた場所は、和泉国(いずみのくに、現在の大阪府和泉市)の槇尾山寺(まきのおさんじ)であった。約2年間、彼は山に籠もっていたわけだ。
○空海が帰国した806年、桓武天皇崩御、平成天皇即位。
○大同2年(807)11月には、伊予親王(桓武天皇の皇子の1人)の陰謀事件があった。謀反の疑いをかけられ、川原寺(かわらでら)に幽閉された親王が、服毒死した事件である。

■脱エリートのための仏教へ、活動開始する空海
○多くの学者・僧侶の方々は「仏教を民衆に広めよう」と発想される。しかし、わたしはそんな発想をしたことがない。
○「ひろさちや」の名前で、わたしは数多くの仏教書をものしてきたが、わたしが考えたのは「仏教は、わたしたち民衆に何を教えることができるだろうか」であった。仏教を使ってみよう、というのがわたしの基本発想である。
○「貴族のための貴族のためだけの仏教なんて、わしには関心ないよ」庶民の姿が、いつも空海の脳裏にあった。
○空海がとった手段・方法は、まず朝廷に近づくことだ。朝廷に自分を認めさせることだ。

■空海、最澄と初めて出会う
○大同4年4月、嵯峨(さが)天皇が、24才で即位した。このとき空海36才。山を下りてきて動き始めたところだ。すでに2月3日に最澄に刺を通じている。「わたしにやりたいことがあります。朝廷に紹介してください」と空海は最澄に頼んだ。
○空海は「時の流れ」に乗る男だ。自然と「流れ」が彼に都合のよいようになっていく。不思議な男である。最澄に会って2ヶ月もすると、譲位によって天皇が替わる。天皇までが、空海のために替わるのである。

■鎮護国家のために、密教の行法を修す
○大同4年(809)、8月はじめに空海は高雄山寺(京都、現在の神護寺)に入住する。この寺は、和気(わけ)氏の氏寺(うじでら)であった。当時は和気真綱(まさつな)が当主であったが、父の清麻呂(きよまろ)と最澄は知友であった。このあたりの動きはすべて最澄の好意によるものである。
○10月3日、高雄山寺に空海を訪ねて天皇の使者が来た。用件は書の揮毫を依頼したものである。のちに「三筆」の名でよばれる嵯峨天皇・空海・橘逸勢の親交がここにはじまったわけだ。
○弘仁元年(810)10月27日、空海は高雄山寺において、国家鎮護の密教の行法を修したいと上奏した。
○空海の時代においては、国家全体を仏に守護してもらうことによって、国家に隷属している民衆の救いがあるわけだ。国家が破滅すれば、人民も不幸になる。

■薬子の変(810)
○藤原薬子、仲成らが上皇(平成)に政権を戻そうと謀り、捕らえられる。薬子は服毒自殺。



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