第6章 傍若無人の空海 



    

■空海より前に密教を伝来した最澄
○誰がなんと言おうと、我が国に最初に密教を伝えた人は、最澄である。
○「密教の伝来者」と「密教人間」とは同じでない。最澄は密教の伝来者であっても密教人間ではなかった。空海は世界で最初の密教人間かもしれない。
○空海はこんなことを言っている。「顕密は人にあり」(般若心経秘鍵)
○密教の経典も、読む人によっては顕教の経典になり、逆に顕教の経典も空海のような人物が読めば密教経典になるわけだ。

■厳格な最澄、包容力のある空海
○最澄、この人は文字どおりの意味で「最も澄める人」であったと思う。正しい仏法の灯を後生に伝えていくこと、それがこの人が自己に課した使命である。そして、その使命に対しては、彼は一切の妥協を排した。徹頭徹尾、自己を貫いた。
○空海はその名前の中に、生れ育った四国讃岐の抜けるような青い空と、明るい南国のイメージを読み込んでいたはずだ。空海には包容力があった。
○最澄「道心(道を求める心)のうちに衣食(えじき)あり、衣食のうちに道心なし」求道心さえあれば、衣食のことを思いわずらう必要はない。
○空海「師資(師と弟子)の衣食はすべて保証する」

■酒も、一杯だけなら許した空海
○最澄「酒を飲む者は山を去れ」
○空海「塩酒(えんじゅ)一杯はこれを許す」

■空海と最澄の蜜月時代
○最澄の目的は、中国の天台山に行き、天台教学を学んでくることであった。
○最澄が持ち帰った密教文献はほんのわずかであった。それでは不充分であることを最澄自身がよく知っていた。その後、両者の間で経典の貸し借りが始まる。

■後に2人が喧嘩別れした遠因
○それは、2人の密教観の相違であったと思う。
○最澄が確立したいと思っている天台法華宗は、いうまでもなく大乗仏教であり、そのうちに顕教と密教がある。

■空海には、最澄のどこが許せなかったのか
○仏教には顕教と密教があって、もし密教を学びたいのであれば、顕教を捨てねばならない。密教と顕教を両方とも自分のものにしたいなんて、空海にすれば考えられないことであった。

■空海が最澄に密教の灌頂を施す
○結縁灌頂は密教の入門儀式である。受者は僧俗を問わない。ということは最澄が俗人と同列に並べられるわけである。ちょっと最澄に気の毒な感がないでもない。

■怨霊(おんりょう)の寺、乙訓寺(おとくにでら)で自分の死を予期する空海
○乙訓寺というのは、怨霊の寺なのである。延暦4年、皇太子であった早良(さわら)親王が、兄の桓武天皇の命令で山城の乙訓寺に幽閉され、食を与えられず、餓死させられたのである。桓武天皇は、早良親王の怨霊に悩まされた。
○そこに空海を住まわせて、密教の鎮魂儀礼によって、怨霊を押さえ込ませようとしたのだ。そういう説がある。(約1年間、空海は乙訓寺に住していた)
○空海は乙訓寺に実ったミカン(柑子)に詩をそえて、天皇に贈っている。(柑子を献ずる表)
○それで空海もこの寺にいた1年は、相当滅入っていたらしい。空海ほどの人物でも死の淵をさまよう日々が続いた。それで、空海はあせっていた。最澄が自分と同じ密教をマスターしてくれることを切望した。

■最澄の姿勢に対する空海のいらだち
○弘仁3年(812)11月15日、高雄山寺において我が国最初の結縁灌頂が行われた。金剛界の結縁灌頂であり、受者は最澄のほかに俗人3名。最澄の弟子17名であった。
○12月14日、胎蔵界の結縁灌頂が行われた。受者は、最澄をはじめとする145名であった。
○これは、当時の仏教界において、いや仏教界だけではない、宮中において大ニュースであった。なぜなら、国立大学の教授が、無名の私立学校の先生の弟子となったからである。
○最澄は、次に伝法灌頂を受けたいと願い出ている。空海は「3年かかる」と返答した。
○「そうですか、3年ですか。だとすれば、わたしにはそんな時間がない。わたしの弟子を預けますから、彼らに伝授してやってください」最澄はそう言ったらしい。
〇この最澄の発言の内に、われわれは彼の密教観を読み取ることができよう。自分が学べなければ、弟子をして学ばせればよいのだ。
〇しかしこの考え方は、空海にとっては絶対に許せないものだ。
 (最澄よ、どうしてあなたは、そんな考え方をするのです。それだと一生かかっても、密教は理解できないですよ)

■辛辣きわまる空海の断わり状
〇弘仁4年(813)11月23日、最澄は一人の弟子を空海のもとに遣わして、「理趣釈経」その他の経典をお借りしたいと申し出た。
〇「理趣釈経」とは、密教の極意を示した経典「理趣経」の注釈書のうち、最も重要なものである。空海はこの書を秘典とし、一般の真言学徒に学ばせなかった。
〇法を伝えるには、伝えるに正しいやり方がある。それを守らぬと、法を盗んだことになる。空海はすぐさま筆をとって、最澄への断りの返書をしたためた。

■空海の叫び「理屈じゃない、まず飛び込め」
〇理趣(真理・道理)は、お前の中にあるんだ。お前は素晴らしい理趣を持っているではないか。それをまずつかめ。
〇密教は現実肯定の仏教である。宇宙の森羅万象を肯定し、煩悩までも大胆に肯定し、男女の愛欲すらも否定しない。「理趣経」という経典は、男女の愛欲を積極的に肯定したものであり「理趣釈経」はその注釈書である。したがって、密教の本質を知らぬ者が読めば、文字にとらわれて理解するおそれがある。

■天才は最悪・最低の教育者
〇空海は宗教的天才であった。しかし、天才は良き教育者になれない。なぜなら、天才には方法論がないからである。
〇何をどうして、何をああして、そしてこうなる、といった手続きが一切ない。いきなりすっと、そこに到達してしまうのだ。天才の任務は芸術的か宗教的かの「創造」にあって、教育ではない。

■なまじ大学に入ると「指示待ち人間」になる
〇大学では「手続き」ばかりしか教えないからだ。そして、たいていが「指示待ち人間」になる。方法が指示されないと動けないのである。

■密教的教育法のすすめ
〇文学論を勉強するより、すぐれた文学をできるだけ読破することだ。絵画の黄金分割の法則なんて聞き流して、美術館の名作を見て回ることだ。それが、密教的教育法である。

■鎌倉仏教の高僧たちは、なぜ最澄の門下から生まれたのか
〇もともと密教には、体系がないのである。方法論がない。これをやって、あれをやって、そしてこうすれば仏陀になれると、そんな階段がない。いきなり、ぴょんと飛び上がれと命ずるだけである。仏の世界に飛び込め、それだけしか言えない。
〇空海に続いて仏陀と合一する道を歩いた第2、第3の宗教者が日本の歴史に出現している。それは、空海よりも400年あとの鎌倉時代であった。
〇皮肉にも彼らは、天台宗の系統から出現したのである。最澄の比叡山は、幾多の宗教的天才を生み出したのである。
 浄土宗の法然(ほうねん)、浄土真宗の親鸞(しんらん)
 曹洞宗の道元(どうげん)、日蓮宗の日蓮(にちれん)

■空海の理念を実現した、道元・日蓮・親鸞
〇密教では「身・口・意の三密」という。「身」は身体、「口」は言語、「意」は心である。
〇鎌倉時代の高僧たちは、この三密をバラバラにして、各自めいめいの一密に専心した。
 身密:道元は「只管打座」(しかんただ)といって、ひたすら座禅をせよと説いた。
 口密:法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を
    日蓮は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えよと説いた。
 意密:親鸞は「信心」だけでよいと説いた。

■泰範事件、空海と最澄の決定的破局
〇泰範は、最澄の代わりに空海から真言密教の伝授を受けるべく、空海の許に送り込まれた最澄の弟子である。
〇最澄が空海と決別した以上、泰範の役割はなくなった。だから早く比叡山に帰って来いと最澄は何度も泰範に呼びかけるが、彼は空海の許を去ろうとしない。
〇弘仁7年(816)5月、泰範のほうから最澄に暇(いとま)を乞う書状が送られてきた。



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