第7章 山に眠った空海 



    

■空海は俗事をも仏道と考える
○顕教のほうは、仏陀になることを目標に修行をする。なかなか仏陀になれっこないからその修行は大変だ。大変ではあるが、ともかく修行をするのだから、やることはいっぱいある。忙しい仏教だ。そこへいくと、どうも密教は暇な仏教であるらしい。
○向こうからやってきた仕事を、それが何であれ「はいはい」と引き受けるのが密教人間の生き方である。仕事の選り好みをしないのである。
○空海はさまざまな世俗の仕事に手を出していたのである。顕教の人間が「俗事」と呼んで毛嫌いする仏教修行以外の雑務をやっていた。当たり前な顔をして、彼は俗事に精を出していたのである。ある意味で密教というのは、そんな俗事を仏道だと思って一生懸命にやる仏教かもしれない。

■大決壊した堤防を、3ヶ月で修復した空海
○弘仁12年(821)5月27日、空海は讃岐国満濃池の修築別当に補任された。
○3ヶ月足らずの期間で、難工事が完成している。

■修築工事への派遣を要請したのは、空海自身だった
○確証はないのだが、讃岐の国司が朝廷に差し出した「空海を別当として派遣してほしい」という請願状は、実は空海が書いたのだという説がある。

■総合教育と完全給費制の学校を造る
○わが国最初の庶民の学校「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を東寺(教王護国寺)の東隣りに創建した。
○ありとあらゆる学芸を伝授するところである。陰陽道、法律、医学、音楽、ありとあらゆる学芸がそこで教授されたのである。しかも、完全給費制の学校である。

■「雨乞い」の密教修法を行ずる空海
○特に空海の名を高めたのは、天長元年(824)2月の雨乞いである。
○場所は宮中の神泉苑(しんせんえん)で、空海は「請雨経法」を修した。
○7日間、空海は祈祷を続けた。結願の日、黒雲が空をおおい、雷は四方に鳴り渡り、雨は3日間降り続いた。

■引退願いを何度も提出する空海
○天長元年3月26日、祈雨修法の験により、空海は少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。
○彼はときどき山に帰りたくなる。山の霊気を充電しないと、空海は窒息死してしまうらしい。
○天長4年(827)には、大僧都になっている。
○空海が一切の官職を辞して高野山に居を移すことができたのは、天長9年(832)、空海59才のときであったとされている。

■空海の見た夢、高野山開創の伝説
○空海は夢を見た。中国の明州の港から、日本の方角に向けて三鈷杵(さんこしょ)を投げた。「あの三鈷杵の落ちた所に密教の聖地をつくろう」
○場面は一変し、紀ノ川の上流に来たとき、黒と白の2匹の犬が高野山に案内した。見ると松の木の枝に三鈷杵がかかっていた。
○弘仁7年(816)6月19日、空海は紀州高野山の地を賜りたいと嵯峨天皇に上奏した。

■人間の住む世界はすべて、浄土である
○空海は、なんとかして顕教人間を密教人間に変身させる手段を考えていたのである。山岳を母胎とみる信仰がそれである。
○顕教人間が山に入っていったん死んで、再び密教人間として生まれてくる仏の子宮、そんな仏の子宮となる山岳をつくりたかったのだ。そこが「密厳浄土」であると。それが高野山であった。

■誰でも、ただちに密教人間になれる
○わたしにとってのインドは、空海にとっての高野山であったことだろう。
○弘仁14(823)、朝廷は東寺を空海に下賜し、その造営を空海に託した。
○天長7年(830)、勅命により『秘密曼荼羅十住心論』十巻とその略本『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
○天長8年(831)5月、空海は悪瘡つまりタチの悪い皮膚の疾患を発症した。癰だともいう。

    

■死に死に死に死んで、死の終わりに冥(くら)し
○天長9年(832)、空海59才、一切の官職を捨てて、裸の密教人間になって高野山に帰ってきたのである。
○同8月、高野山ではじめての「万燈万華会」を行い、その願文に自らの人生の万感を記した。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん」
○承和2年(835)3月21日、62才。空海は再び目覚めぬ眠りについた。
○凡夫は永遠に流転を繰り返す。しかし仏陀となった空海は、そんな輪廻の生涯を超越している。彼は、生の始めと死の終わりを見たのだ。そして、静かに高野山に眠っている。
○86年後の921年、「弘法大師」の諡号がおくられる。



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