空海への道  (HP管理人)



 今年は高野山開創1200年で、さまざまなイベントが計画されています。
 自分は和歌山県生まれですが、約30年間県外に住んでいまして、和歌山県といってもどこにあるか知らない人もいました。岡山県と間違われたりしました。柿やミカンの産地で高野山があってと説明していました。中には質問する人がいましたが、「弘法大師空海の真言宗ってどんな宗教なのか」とたずねられても、恥ずかしいことに何も答えられませんでした。

密教は後退した仏教
 確か高校の倫理社会で、密教(真言宗もその一つ)というのはインドの呪術を取り入れた後退した仏教だと教えられた記憶があり、どうも興味がもてませんでした。鎌倉仏教の親鸞・道元・日蓮の教えの方が分かりやすい気がしました。
 特に道元の教えはとても哲学的・合理的で、究極の仏教だと思いました。また、「禅」はブッダの教えに最も近いと思いました。自分としては、これで仏教に自分なりの結論をつけたつもりでした。

 ところがある時、いくら悟りを開いてもそれを表現し、人に伝えられなければ意味がないと思ったのです。時代はアナログからデジタルに変わる頃でした。昔は活字だけであったものが、パソコンを使い、イラストや図表を入れてカラフルに表現できるようになりました。その時フッと「これは空海が考えたことと同じじゃないか」と思ったのです。

「悟り」は表現できるか
 「悟り」をどう考えるか、という場合に、二つの立場があります。一つは、例えば禅宗のように「不立文字」(ふりゅうもんじ)と言う言葉がありますが、「悟り」は文字で表現できないという立場です。それに反し、空海は「表現できる」という立場をとりました。空海は並はずれた言語能力・文章表現力をもっていたのですが、言葉だけでなく、絵や梵字を使って「悟り」の内容をビジュアルにわかりやすく表現しようとしました。その集大成が「曼荼羅」となります。

 こう考えると、現代のデザイナー、コピーライター、アーチストとしての側面をもっており、やっと空海との接点を見つけた気がしました。

大宇宙を取り込む密教
 空海の青年時代、奈良仏教や最澄の天台宗が隆盛を誇っていました。ところが空海は、知識とか理論を重視する宗教よりも、五感に響くような芸術性や創造性に富んだ宗教を求めました。学業優秀でエリートコースを歩んでいたにもかかわらず、大学を中退し、山野を駆け巡り修行しました。そしてついに、大自然や大宇宙を取り込む密教の教えにたどりつきました。その後、中国に留学しますが、既に密教のエッセンスを体得していたと言われます。中国の恵果和尚(中国での密教の先生)は、一目見て空海の才能を見抜いたのでした。

日本的感性の源泉
 真言密教の言葉に「入我我入」(にゅうががにゅう)という教えがあります。そのものに自分が入り、自分の中にそのものが入るという意味です。日本人は桜が咲くのを心待ちにし、雨や風で桜が散ってしまわないか、我がことのように心配しています。それはまさに、自分が桜になり、桜が自分になっているからだと思います。空海が全国的に人気が高いのも、その教えが日本人の感性(自然をいつくしみ、自然の至る所に神様が宿っているという感覚)にピッタリ合っているからではないでしょうか。

 今日、日本の仏教は葬式仏教と批判されておりますが、本来は人の生き方、社会や世界のあり方を説いたものです。高野山開創1200年を機に空海の生き方に触れてみてはいかがでしょうか。

(2015-4-20)



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