「空海入門−弘仁のモダニスト」 竹内 信夫 (ちくま学芸文庫)  



フランス文学者の空海邂逅  (井頭山人 2017-1-13)

 著者は、あの年、昭和44年(1969年)の学生時代、全共闘学生運動に埋没し挫折してフランス文学を研究する。そして、いつの間にか筑摩叢書の渡邊照宏氏が書かれた「沙門空海」に出会い、初めて空海を発見したと云う。まさに象徴的な辿り着き方であり、出会いであると思う。どんな場合でもそうですが、人間の内面の季が熟した時にしか本物の出会いは無いのですから。

 日本の知識人と呼ばれる人たちは、大半の方が真理は海外にあると思っている。たぶん著者もその御一人であったのでしょう。一生懸命に、外国の思想家や新文化を研究され、やがて、それにも飽きて、遠い過去の日本人をたまたま見る機会に空海を発見するという事例パターンが多いと思います。ふと気が付いたら、なんだ足元に金剛石が転がっていた、そんな状態のようです。多くの日本人は、日本に生まれながら本当の日本を知らない。外国を知る事で自分の国が、どういう国かが見えて来る。そして、知らない事は、たぶんそれは敗戦後の教育にも問題が有るのでしょう。

 歴史時代の2000年に成らんとする文化を魅力的に深く豊かに、且つ積極的に、意図的に教えていない為でもあります。もしかすると、真理は海外にあると思っていたのは、若い空海自身でもあったかも知れませんね。でも彼の場合は、修験道という、縄文以来の自然の中に入って、その恵みを発見していたとは思いますが、立派な学者でも一生涯、空海に巡り会えなかった人も多いのです。それはひとえに、何と言いますか出会いの季が、熟して居なかった為であろうかと思います。

 この本は1997年に、ちくま新書として発刊されたらしいが、投稿者は今月(2017年1月3日)に発刊から20年ほどして、この本に出逢いました。せがまれて、年始のバーゲンセールに出掛けたヨーカ堂の本屋で見かけた「空海入門」と云うから、どんな事を書いているのだろうと思い手に取りました。
 著者は御自分の人生遍歴を、少し述べた後に自分の空海への接近を語られている。然もこの本を高野山の学院で書いているのだというから、その思い入れは相当強いのでしょう。フランス文学を研究した手法を使い、空海を書いているのだという。

 著者は四国のお生まれで、空海が修行をした室戸岬や、登ったと思われる石鎚山なども山岳逍遥を楽しんだらしい。であるから、故郷の山々とそこで修業をした沙門空海を、近しい師としてまた山友としてのお気持ちを抱かれているらしい。誠に結構なお話です。空海と云う人物は、誰とでもその大自然の下で山友や同志になって仕舞う心を有している人物と言えます。本格的に読みたい人の為には、筑摩書房から出ている弘法大師空海全集や他の出版社からも、別な全集が出ているのでそれを参考にすればいいです。性霊集は巻のひとつが欠けている。弟子が補完したらしいがそれでも十分に空海の人となりを知る事は出来るでしょう。

 空海は、我々の生きる現在の日月からは遥かに遠い人物である、彼が生きた時間は、暦で云えば今から1400年も前の事ですが、この人物の哲学は、過去にではなく遠い未来に生きていると思います。2000年や3000年を超える知の射程にある人格なのだろう。いや、もっと未来かも知れない。
 投稿者はいつも思うのだが、何故この様な人物が生れたのだろうか?と不思議に思う。言語哲学の精髄を語ったウン字義、秘蔵宝ヤク、十住心論、詩文集である性霊集・・・。真言密教の神髄は、言語哲学と宇宙論の中に在ると投稿者は思いますが、言語哲学は未だに未開の世界である。この世界を照らし出す智慧の光は、我々の後世からうまれるか?

 著者はこの本の終章で、性霊集巻二の中の、沙門勝道について言及しているのは興味深かった。というのは著者の生まれた四国は、空海が生まれた土地であり、付近には著者が何度も登り且つ空海が修行した石鎚山が有るという。ところが同じように、投稿者の住む付近には沙門勝道の生まれた寺があるのです。投稿者は年に一度必ずそこを訪れます。この仏生寺で生まれた勝道は、山から浸みだした池の水で産湯をつかり、やがて当時の三戒壇のひとつである下野薬師寺で得度します。そして彼の活躍が始まります。

 最も大きな業績は性霊集にもある様に、日光二荒山の開山です。当時は鬼が出るか蛇が出るか分らぬ深山幽谷に分け入り、それを開基することは、常人技ではない困難な事でした。もしも勝道に興味の在る方は、山間の静かな山寺である仏生寺を訪ねてみる事をお勧めします。



最良の和魂洋才  (編集素浪人 2010-10-20)

 ちくま新書のベストである。このようにみごとな空海論を書ける仏文学徒がいることは、救いようのない宗教界・学界にあってまことに貴重だ。坊主の護教的独断、小説家の恣意的な空想、ジャパネスク馬鹿の妄想などに飽き足らない読者には必読であろう。

 第3章「『請来目録』という作品」、第4章「弘仁のモダニズム」が白眉。随所に見える卓見は日本史の研究者にも示唆が多いと思う。西洋学で鍛えられた方法や見識が無理なく、発見的に「応用」されているからだ。言葉の最良の意味での「和魂洋才」が実現していると言ってもよい。著者のいわゆる「ロケ」が膨らみとポエジーを添えていることも印象深い。

 空海のように「国粮」を固辞する(224頁)どころか、1年でも長くそれにありつきたいと願う公務員が多いなか、著者は定年後潔く帰郷されたと聞く。この人は空海と故郷を同じくするはずだ。「同志よ、何ぞ優遊せざる」。空海の呼びかけでもあり、著者のいざないでもあるこの言葉に早く応えたいのだが……



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