人物



■真魚
 空海の幼名。

■佐伯値田公(さえきのあたい・たきみ)
 奈良時代から平安時代初期ごろにかけての人物。姓は直。播磨国造の一族で、多度郡擬大領・佐伯男足の子とする系図がある。官職は多度郡少領。讃岐国多度郡の豪族であったが、子の真魚(のち空海)を中央官人にするため、妻の実家である阿刀氏の一族であった阿刀大足の尽力によって、大学寮明経科に入学させる。しかし、真魚は仏門の世界に入ることとなり、田公は憤慨したという。その弁明として真魚が書いたのが、『聾瞽指帰』である。
 佐伯氏(佐伯直)の一族からは、宗教家が多く輩出され、真言宗の発展を支えた。

■阿刀大足(あとの・おおたり)
 平安初期の学者。空海の母方のおじ。桓武天皇皇子伊予親王の侍読として活躍したが、大同2(807)年10月の親王謀反の事件に巻き込まれたものか、その後の事績などは不明。

 甥の空海が大足を頼って上京(平城京とも長岡京とも)、大学へ入学する以前、論語、孝経、史伝などの個人指導を行ったことが、空海の『三教指帰』序などで知られる。空海の入唐実現は大足の援助によるといい、かの地で発揮された中国語や漢学の才能も大足の影響が大であったといわれる。空海を世に送り出した恩人といってよい。

■藤原葛野麻呂(ふじわらの・かどのまろ)
(755〜818)奈良時代から平安時代前期にかけての貴族。藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。官位は正三位・中納言。
 延暦20年(801)遣唐大使に任命され、延暦23年(804)7月に最澄・空海らと共に唐に渡る。同年12月徳宗に謁見し、翌延暦24年(805)の徳宗崩御と順宗即位に遭遇した。同年7月に帰国、大使の功により従四位上から一挙に従三位にまで昇叙され公卿に列した。

■嵯峨天皇(さがてんのう)
(786〜842)第52代に数えられる平安初期の天皇。在位809〜823年。桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)との間に生まれ、名を神野(かみの)(賀美能)という。同母兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位。平城上皇が寵妃藤原薬子(くすこ)らとともに、多数の官人をひきいて平城旧京に移り、〈二所朝廷〉の観を呈したので、坂上田村麻呂以下の兵を発して上皇方を征圧した。これを〈薬子の変〉という。

 以後、弘仁の14年間、異母弟淳和天皇の天長の10年間、皇后橘嘉智子(かちこ)との間に生まれた仁明天皇の承和9年に没するまでの計30余年は、皇室家父長としての嵯峨天(上)皇の権威のもとに、古代史にまれな政治的安定が出現し、弘仁文化と呼ばれる宮廷中心の文化が開花した。

■閻済美(えん・さいび)
 福州の観察使(地方長官)。遣唐使船が福州赤岸鎮(せきがんちん)に漂着したものの、閻済美はなかなか上陸を許可しなかった。大使藤原葛野麻呂が何度か嘆願書を書いたが相手にされない。そこで空海が代わって書いたのが「大使の為に福州の観察史に与ふるの書」である。これを読んだ閻済美は、高い教養と説得力のある文章表現力に感嘆し、即座に上陸を許可した。
 この福州で、空海が初めて入った寺院が開元寺で、現在、空海の立像や坐像が建立されて、多くの観光客が訪れている。

■恵果(えか、けいか)
(746〜806)中国唐代の密教僧で日本の空海の師。俗姓は馬氏。長安の東にある昭応の出身。真言八祖の第七祖。真言八祖像として描かれるときは、童子を従えた姿に描かれることになっている。

 出家した後、不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から大日系と蘇悉地系の密教を学んだ。金剛頂経・大日経の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的改変も行った。長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗・徳宗・順宗と3代にわたり皇帝に師と仰がれた。

■橘 逸勢(たちばなの・はやなり)
(782〜842)平安時代初期の書家・貴族。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。
 延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができないと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった。

■最澄(さいちょう)
(767〜822)日本天台宗の開祖。姓は三津首(みつのおびと)。近江の人。比叡山に入り法華一乗思想に傾倒し、根本中堂を創建。804年入唐、翌年帰国し、天台宗を開創。「山家学生式(さんげがくしようしき)」をつくって大乗戒壇設立を請願したが、南都の反対にあい、死後七日目に勅許がおりた。日本最初の大師号伝教大師を勅諡(ちよくし)される。書状「久隔帖(きゆうかくじよう)」は名筆として知られる。著「顕戒論」「守護国界章」など。

■応其(おうご、木食上人)
(1537〜1608)戦国〜安土桃山時代の真言宗の僧。諱(いみな)は日斎。字(あざな)は順良。通称、木食上人(もくじきしょうにん)、興山(こうざん)上人、木食応其という。近江(おうみ)(滋賀県)の佐々木氏、大和(やまと)(奈良県)の越智(おち)氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、1573年(天正1)に高野山(こうやさん)に登って出家し、穀物を断って木実果実のみを食し、木食苦行を積んだ。

 1585年(天正13)、豊臣秀吉の高野山攻撃にあたり、粉河(こかわ)の陣中に参じて秀吉を説得、これを阻止した。以後、秀吉の信任を得、その援助によって高野山を復興した。高野山では客僧の身分であったが、新たに興山寺、青巌寺(せいがんじ)を建立し、94年(文禄3)には秀吉が登山した。山上の堂宇は金剛峯寺(こんごうぶじ)金堂など25棟、そのほか近畿をはじめ諸国の堂宇80余りを再興、修理した。

■十大弟子
 空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」(878年)によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされる。後に、この10人を釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師(空海)十大弟子と称するようになった。

真済(しんぜい)
 その器量を空海に愛され、25才で伝法阿闍梨になる。
真雅(しんが)
 空海の実弟。9才で高雄山の空海のもとに駆けつける。東寺長者になる。
実恵(じちえ)
 讃岐出身。高野山の開創に努め、空海の跡を継いで2世東寺長者となる。
道雄(どうゆう)
 東大寺の僧だったが空海に師事。後に海印寺を開創し、真言華厳兼学の寺とする。
円明(えんみょう)
 もと東大寺の僧。空海に師事し、後に東大寺21代別当職を務める。
真如(しんにょ)
 平成天皇の子で、名を高岳親王といった。薬子の変で皇太子の地位を追われ出家。
 空海の弟子になる。インドを目指したが、途中で客死。絵の空海像は真如の筆から始まったという。
杲隣(ごうりん)
 もと東大寺の僧。伊豆に修禅寺を開く。
泰範(たいはん)
 最澄が後継者として見込んでいた弟子で比叡山の総別当だったが、高雄山寺にとどまるうち、次第に空海に傾倒し弟子入りする。高野山の開創に努める。
智泉(ちせん)
 空海の甥。絵がうまく金剛峯寺の初代大塔の柱の仏画は智泉が描いたといわれている。 空海の留守中に健康を害し、高野山で死去。空海は智泉の死を知り号泣したという。
忠延(ちゅうえん)
 もと高雄山の僧。空海に師事し、東寺などで密教宣布に努める。



目次 


inserted by FC2 system