経典



■大日経(だいにちきょう)
 大乗経典の一つ。7巻。唐の善無畏(ぜんむい)が漢訳。真言宗三部経の一つ。大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来(大日如来)が自由自在に活動し説法する様を描いた経典。教理は第1章で、他は実践行の象徴的説明である。胎蔵界曼荼羅を示して、身・口・意の三密の方便を説き明かす、密教の根本経典の一つ。もと「大毘廬遮那成仏神変加持経」という。

■金剛頂経(こんごうちょうぎょう)
 真言密教で用いる、根本聖典の一つ。詳しくは「金剛頂一切如来摂大乗現証大教王経」といい、唐代中期に不空が漢訳したもの。如来が金剛三摩地に入って金剛界三十七尊を出生する、金剛界大曼荼羅(まんだら)の建立と、弟子を曼荼羅に引き入れる方法や羯摩、三種曼荼羅について説き、この経によって金剛界曼荼羅(両界曼荼羅)が図示される。胎蔵部に属する「大日経」とあわせて、両部大経とよばれ、空海がこれを日本に伝えるが、チベットでもツォンカパ密教のよるところとなる。

■理趣経(りしゅきょう)
 正式名称『般若波羅蜜多理趣百五十頌』(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)は、『金剛頂経』十八会の内の第六会にあたる『理趣広経』の略本に相当する密教経典である。主に真言宗各派で読誦される常用経典である。『百五十頌般若』(ひゃくごじゅうじゅはんにゃ)、『般若理趣経』(はんにゃりしゅきょう)と呼ぶこともある。

 真言宗では、不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経』(たいらきんこうふこうしんじさんまやけい)を指す。
 理趣とは、道筋の意味であり、「般若の知恵に至るための道筋」の意味である。他の密教の教えが全て修行を前提としている為、専門の僧侶でないと読んでもわからないのに対し、般若理趣経は行法についてほとんど触れておらず、一般向けの密教の入門書という位置づけだと考えられている。

 普通、経典は呉音で読まれるのが一般的であるが、真言宗では『理趣経』が日本に伝来した時代の中国語の音から漢音で読誦する。例えば、経題の「大楽金剛不空真実三摩耶経」は「たいら(く)きんこうふこうしんじ(つ)さんまやけい」(カッコ内は読経時には読まない)と読み、本文の最初の「如是我聞」は他のほとんどの経では「にょぜがもん」と読むが、理趣経では「じょしがぶん」と読む。俗に、内容が性的な境地も清浄であるという誤解を招きやすい内容なので、分からないように漢音で読誦するともいわれていたが、松長は漢音使用の政府の命令に従っただけであろうと考えている。

(十七清浄句)
 真言密教では、「自性清浄」という思想が根本にある。これは天台宗の本覚思想と対比、また同一視されるが、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないというものである。『理趣経』は、この自性清浄に基づき人間の営みが本来は清浄なものであると述べているのが特徴である。
 特に最初の部分である大楽(たいらく)の法門においては、「十七清浄句」といわれる17の句偈が説かれている。十七清浄句では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定している。

 仏教において顕教では、男女の性行為はどちらかといえば否定される向きがある。これに対し『理趣経』では上記のように欲望を完全否定していないことから、「男女の交歓を肯定する経典」などと色眼鏡的な見方でこの経典を語られることもあるが、真言密教の自性清浄を端的に表した句偈であり、人間の行動や考え、営み自体は本来は不浄なものではない。自我に囚われた行動や考えが問題なのだ、小欲ではなく世の為人の為という大欲を持てと述べていることがその肝要である。

 十七清浄句は欲望の単なる肯定であると誤解されたり、また欲望肯定(或は男女性交)=即身成仏であると誤解されたりする向きも多い。
 ちなみに、『理趣経』を使った『理趣経法』は、四度加行を実践して前行をしてからでないと伝授してはならないという厳しい規則がある。また『理趣経』の最後の十七段目は「百字の偈」と呼ばれ、一番中心となっている。人たるもの大欲(たいよく)を持ち、衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切であると説き、清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが人の務めであると説かれている。



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