その他



■三筆(さんぴつ)
 著名な3人の能書家の意であるが、一般には平安時代初期の書家の代表として空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人をさす。

■弘法筆を択ばず
 「弘法筆を択ばず」という俗言があるが、これは、「どんな筆でも立派に書き得るだけの力量がある」という意で、学書の時、どんな悪い筆を使ってもよいという意ではない。事実、空海の真跡を見れば良筆を使っていたことは明らかであり、在唐中、製筆法も学んでいる。

■五筆和尚(ごひつわじょう)
 在唐中、皇帝から唐朝の宮中の王羲之の壁書の書き直しを命じられた空海は、左右の手足と口とに筆を持って、5行を同時に書いて人々を驚かせ、五筆和尚の名を賜った逸話が残されている。この五筆和尚の図が『弘法大師伝絵巻』(白鶴美術館蔵)に見られる。しかし、これはあくまでも後人が作った伝説であり、五筆とは、楷・行・草・隷・篆の5つの書体すべてをよくしたことによると考えられる。


■飛白体(ひはくたい)
 書体の一つである飛白(ひはく)体とは、刷毛筆を用いた書法で、かすれが多く、装飾的である。飛白の「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味し、後漢の蔡_が、人が刷毛で字を書いているのを見て考え出したという。飛白は宮城(きゅうじょう)の門の題署や碑碣の額に多く用いられ、飛白篆(篆書)・飛白草(草書)・散隷(八分)の飛白体がある。

 空海の筆跡としては『七祖像賛』が残っているが、その飛白文字は天女の衣が大空に翻るようで美しい。日本では空海の後、この書法は中絶したが、江戸時代初期ごろ、松花堂昭乗や石川丈山らが盛んに書いた。
  

■四六駢儷体(しろくべんれいたい)
 「駢儷」は馬を二頭立てで走らせる意で、対句構成の文を形容したもの。漢文の文体。四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体。誇大で華美な文辞を用い、典故のある語句を繁用し、平仄(ひようそく)を合わせて音調を整えるのが特徴で、朗誦に適する。

 漢・魏(ぎ)の時代に起こり、南北朝時代に盛んに行われ、中唐の韓愈(かんゆ)・柳宗元が古文の復興を提唱してから衰えた。日本では奈良・平安時代の漢文によく用いられた。四六駢儷文。四六文。駢儷体。駢儷文。駢体文。駢文。

■長安(ちょうあん)
 中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。また西都(さいと)、大興(だいこう)、中京(ちゅうけい)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。

 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。

■五輪塔(ごりんとう)
 主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。

 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝殊型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。


■水銀(すいぎん)
 古代においては、辰砂(主成分は硫化水銀:鮮血色をしている)などの水銀化合物は、その特性や外見から不死の薬として珍重されてきた。特に中国の皇帝に愛用されており、不老不死の薬、「仙丹」の原料と信じられていた(錬丹術)。それが日本に伝わり飛鳥時代の女帝持統天皇も若さと美しさを保つために飲んでいたとされる。しかし現代から見ればまさに毒を飲んでいるに等しく、始皇帝を始め多くの権力者が中毒で命を落としたといわれている。中世以降、水銀は毒として認知されるようになった。

■丹生鉱山(にうこうざん)
 三重県多気郡多気町にあった水銀鉱山である。丹生水銀鉱山、丹生丹坑、丹生水銀山ともいう。鉱山の名称であり、地名ともなっている「丹生」とは、丹土(朱砂…辰砂)が採取される土地の事を指すとする説が有力である。また、古代に水銀や朱砂を採掘・加工していた氏族の名前とされる。彼らはニウヅヒメ(丹生津姫、丹生津比女とも書く)を祭神として、活動拠点に丹生神社と名付けられた神社を建立した。また、地名としても丹生という名が残っている他、「入」、「仁宇」、「仁保」、「門入」と丹生から変型した地名も存在する。

 高野山麓には丹生都比売神社が存在し、ニウヅヒメが祭神となっている。ニウヅヒメは元々、大和国の丹生川のはてに住んでみえたので名付けられたという。現在、ニウヅヒメは「祈雨止雨の神」であり、同神社は同信仰の拠点となっている。また、ニウヅヒメは伊勢国に姿を見せたともされている。同地は丹生氏の本拠地だったともいわれ、水銀にまつわる神と考えられる。この事から丹生都比売神社と、同町丹生地区の丹生神社は祈雨止雨信仰と共に水銀鉱業に関するつながりもあるものと見られる。

■満濃池(まんのういけ)
 灌漑用の溜池として日本一を誇る満濃池は、「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年〜704年)に讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)の創築と伝えられています。しかし弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使路真人浜継(ちくちしみちのまひとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、技術的困難と人手不足によって改修がならず、国守清原夏野の発議により、弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されました。

 空海が郷土入りをすると人々は続々と集まり人手不足は解消し、唐で学んだ土木学を生かして、わずか3ヵ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建しました。
  



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